2013年2月1日〜15日
2月1日 キャンベル 〔執事・未出〕

病院に駆けつけると、ご主人様は電話で口論している真っ最中でした。

「青白い顔してたし、不調を訴えてたはずだ。――毒じゃない。わたしも食った! きみに、預けたのはな――」

 わたしは察してその受話器をとりあげ、

「申し訳ございません。ただいま主人は取り乱しておりまして、あとからかけなおさせていただきます」

 電話を切ると、主人に聞きました。

「病名は」

「まだだ。大量の血を吐いた――死ぬかもしれない」

 わたしは主人を座らせ、コーヒーをとってきました。


2月2日 キャンベル 〔執事・未出〕

 主人は犬に甘いものを買っていったのだそうです。

「あの評判のシュークリームをさ。あいつ、例によってがっついて、――でもすぐに気もち悪いっていいだした。わたしも喰ったが、なんともない。そしたらいきなり、あいつ、ばっと真っ赤な血を吐いたんだ」

 ご主人様は頭を抱えました。

「肝臓の静脈瘤破裂なら、死ぬかもしれんそうだ」

 わたしはご主人様に飲み物を勧め、

「ヴィラの医療は世界一ですよ。あとは医師に任せましょう」

 ご主人様はふと頭をあげました。

「ポールに知らせなきゃ」


2月3日 キャンベル 〔執事・未出〕

 犬は胃潰瘍でした。

「四箇所、切れているところがありました。700ミリぐらい失血したんじゃないかな。あと少し搬送が遅かったらアウトでしたね」

 主人は医師に生返事をかえしつつ、犬を凝視していました。犬は以前より細く、たよりなく見えました。左手ばかりが点滴のせいで、紫色にふくれあがっています。

「原因は」

 主人が低い声で聞きました。

「ストレスですか」

「そうですね」

 医師はあっさりいいました。

「最近はセルの犬全員に、ピロリ菌の除菌をしているんですが、なくなりませんな」


2月4日 キャンベル 〔執事・未出〕

 目を覚ますと、犬はしきりに水を飲みたがりました。

「ノドが痛い。胃カメラのせいだ」

「胃カメラじゃないよ。カメラマンのせいさ」

 主人は冗談を言いつつ、ずっと犬についていました。

 犬は絶食状態です。水も禁止されています。5分おきに水をねだる犬に、主人はあれこれバカ話をして、気をそらしてやっていました。
 犬は

「アホじゃねえか。くそったれ、もう帰れ」

 と邪険にいうわりには、主人がトイレにたつと

「え、帰るの」

 と不安そうな目をします。


2月5日 キャンベル 〔執事・未出〕

 主人は毎日、病院に通い詰めています。

「だいぶ顔色がよくなったよ。ジュースばっかり飲んで、医者に叱られているらしいけど」

 そういう主人の頬が得意げに光っています。
 固形物が食べられない犬に、せめてうまい生ジュースを飲ませてやろうと、ジューサーを持ち込んだのはこの男です。

 「うちでまた引き取るしかありませんな」

 わたしは笑いました。

「フォンタナ氏に病人の食事管理までお願いできませんから」

 しかし、主人は言いました。

「いや、それはふさわしい人間がやる」


2月6日 キャンベル 〔執事・未出〕

 病院に衣類を届けにいくと、病室には見知らぬ男がいました。

 長身で、ハンサムな男。犬がその腕にしがみついて泣いています。犬の元飼い主、ポール・テイラー氏でした。

 主人はわたしに気づき、目配せして病室から出ました。わたしも従い、

「よろしいのですか。所有権はあなたが持っているのですよ」

「所有権なんか誰にもない」

 ご主人様はわらいました。

「胃に穴が開くほどやつを慕ってるんだ。所有権なんかふりかざしてどうする」

 これでいい、と言い、足早に廊下を歩いていきました。


2月7日 キャンベル 〔執事・未出〕

「5億セスも出した犬、タダでくれてやったんですか」

 ペペはアホのように何度も繰り返しました。

「むこうもずうずうしく受け取ったもんだ」

「拒む理由などないさ。もとから手放したくて手放したわけじゃないんだから」

 主人は当然のように言いました。

「こちらもそのつもりで保護していた」

「保護?! 旦那はあれが欲しかった。だから成犬館に戻さず、世話してやっていたんでしょうが」

「ちがう」

「あんたはいいやつのフリした意気地なしだ!」

 主人ははじめて怒鳴りました。

「ぼくは犬を飼う柄じゃない!」


2月8日 キャンベル 〔執事・未出〕

 夕食後、ブランデーを出した後、ご主人様はぽつりと

「ペペはきついな」

 親に叱られた幼児のようにしょんぼりと目を伏せています。

「こういう時は本当のことは言わないもんだろ。こっちは失恋したんだから」

 わたしは申し上げました。

「ご主人様、ベンチャーキャピタルというのは、どんな会社でも成功させてしまうものなんですか」

「いや。うまくいくのは4割ぐらいだよ。あとは救いようがない」

「でも、投資なさる」

「うまく行く時はリターンが大きいからね」


2月9日 キャンベル 〔執事・未出〕
 
 主人はわたしの意図を察して、「それとこれはちがう」と牽制しました。

「では、そのお仕事を始めたのは何年前です?」

「8年前だ」

「その間、投資する会社をずっとクジで選んできたんですか」

「?」

「創業の頃より、ベンチャー企業の将来性を見る目が養われたのではないですか」

「血の授業料を払ったからね」

「つまり8年前より、あなたは成長した。8年前とは別の人間です。同じように――最初の失恋がいつか存じませんが――その頃のあなたと今のあなたは違うんじゃないでしょうか」


2月10日 キャンベル 〔執事・未出〕

 ご主人様は黙り込んでしまわれました。やがて、ぽつりと

「そうかもしれんね」

 とつぶやきました。

「あのブロックの庭を作ってやった時、コスタの心が無邪気にひらいたのがわかった。ぼくとの間に一本の電線がつながった。一本の、かぼそい電線。ひどくいとしかった。いとしくて、ほかになにもほしくない。――あんな気分、十代の頃はわからなかったな」

 でも、もう終わった、と肩をすくめ、立ち上がりました。

「もう寝るよ。泣きだすといけないから」

 その時、電話が鳴りました。


2月11日 キャンベル 〔執事・未出〕
 
 相手はコスタの担当アクトーレスでした。この無能な男は妙にうわずっていて、

「コスタの譲渡をされたというのは間違いないですか」

「はい。本日の昼、家令に連絡しましたが」

「サインは」

「はい。オンラインでこちらから送りました」

「したんですか、サイン!」

「どうかなさいました」

 アクトーレスはうめき声をあげていましたが、

「コスタが処分されそうなんです」

「?」

 わたしは問い直しました。

「もう一度」

「テイラー氏が処分しろと命じたんです」

「なぜ」

「コスタがテイラー氏を刺したんですよ!」


2月12日 キャンベル 〔執事・未出〕

 コスタは兵士に監視された病室に移されていました。

「やっちまった」

 コスタはけろりとしていました。

「後悔してないぜ。あいつはクズだからな」

 ご主人様は息をしずめて聞きました。

「なにがあった。刺すようなことか」

「わかんねえな。カッとなっちまった」

 コスタは少し考えた後、

「あんた、あいつにはかかわらないほうがいいよ。あいつは、あいつの置いていった花みたいなやつだよ。水遣っても、水遣っても枯れちまうんだ。ひとの気持ちなんか永遠にわからない。根っこがないのさ」


2月13日 キャンベル 〔執事・未出〕

 具体的に何があったのか、犬が明かさないため、ご主人様はアクトーレスに説明を求めました。

「ちょっとこちらへ」

 アクトーレスはわれわれを警備室に通しました。

「病室のカメラ映像を再生します」

 モニターにコスタのベッドが映ります。

 ハンサムなテイラー氏とコスタが談笑している風景が早送りされていき、キュルキュルとふたりの会話が流れます。

 ふいにコスタがベッドから立ち上がり、コップを割ってキュルキュルわめき、テイラー氏の腹を突き刺しました。

「あ、ちょっと戻します」


2月14日 キャンベル 〔執事・未出〕

 コスタ聞いてくれ。いま、どうしてもおれのビジネスに2000万ドル必要なんだ。じゃないとおれは破滅するんだ。

 ――おれをまた売るの? 

 かならず、買い戻す。それとも、おまえモリソンに話してくれないか。

 は? 

 やつはおまえを気に入っている。やつに出資してくれるように頼んでくれ。そうしたら……

 あんた、何言ってんの。

 あいつにとっちゃ2000万なんて、花代みたいなもんだ。役員報酬でアホみたいに金が入ってくるんだから。おまえが枕元でささやいてやったら――。


2月15日 キャンベル 〔執事・未出〕

『だまれ』

 コスタはテイラー氏を睨みました。

『コスタ、かたく考えるな。簡単だ』

『黙れ!』

 彼はそばにあったコップを掴むとベッドの柵に打ち当てました。

『おい、落ち着けよ』

『やつは指一本、おれに触れちゃいない! やつはおれにサンドイッチをくれた。おまえはカードの金がなくなっても放置してた。やつはおれに住むところをくれ、病院に連れてってくれた。そこのジューサーも、花も、みんなやつが買ってくれたもんだ』

『だから、簡単だろ』

 コスタは怒号し、コップを手に突進しました。


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